水戸の梅まつりと言えば偕楽園ですが、弘道館の存在も忘れちゃいけません!
弘道館は偕楽園と一対の施設として、天保12年(1841年)につくられたからです。
では、水戸駅北口の「三の丸歴史ロード」から行ってみましょう!
水戸京成ホテル脇の道路を上がっていきます。
午後3時近く。三の丸小学校の児童たちが下校しています。
塀の中が学校なんです。良い環境ですよね。
今日は平日なので人影もまばらですが、見学者がそれなりにいるようです。
「弘道館と好文亭のセット入場券」が販売されているんですって。
偕楽園に来たら、こっちも寄らなきゃね!
弘道館に入る前に、まず裏手の「弘道館公園」を見ていきましょうか。
梅の花には時期によってそれぞれ楽しみ方があるそうです。
早咲きの品種が咲き始める2月末から3月はじめの時期は「探梅」と呼ばれ、
硬いつぼみが並ぶ木々の中から開花している梅を探して楽しむそうです。
じゃ、さっそく「探梅」してみますか。おおっ、咲いていますね!
「八重寒紅」かな。
白梅も!
これは孔子廟の近く。
光がいい感じ。
桜かと思っちゃいましたが、梅には枝垂れの品種もあるんですね。
全体としてはまだまだこれからですが、「探梅」は楽しめますよ!
日も押し迫ってきたので弘道館の中に入ってみましょうか。
小さな門をくぐると・・・
柳川枝垂れと白難波が出迎えてくれます。
左手の梅林はいい感じに開花してきています。紅いのは「八重寒紅」ですね。
梅林の中を歩いていると、梅の花の清々しい香りが漂っていて、なんともいい気分!
公式発表によると、本日、弘道館の梅は800本中206本が開花したそうです。
そういえば、ここには「虎の尾」があったはず・・・庭の隅に立っていて、かなり見頃です。
これは水戸の六名木のひとつですが、「江南所無」以外の六名木は開花しているそうです。
午後の陽ざしがいい感じなので、ちょっと庭を散策してみましょうか。
経路に敷かれたむしろの上に花びらが・・・
ここから見える弘道館の正庁はいい感じですよね。
塀の近くで、日差しを浴びて輝いていたのは「白加賀」。
これは「烈公梅」。まだこれからです。
そろそろ正庁へ行ってみましょうか。
もともと偕楽園は「心身保養の場」、弘道館は「学問と武術の修得の場」として設計されたそうです。
開設当時の弘道館には、文館、武館、歌学局、兵学局、音楽局、諸礼局、天文数学所、医学館、馬場
などの施設があり、文系と一部の自然科学が教えられ、他藩の藩士も勉強しに来ていたそうですから、現在の総合大学のような感じだったのでしょう。
設計者である斉昭公の構想では、弘道館は「水戸が天下の魁となり、日本の国家を護り、
将来へ発展できる優秀な人材を育成する」というのが目的だったそうです。
「天下の魁」と聞くとずいぶん大げさな感じがしますが、
弘道館と偕楽園が開設された1840年代と言えば、中国がアヘン戦争で英国に大敗し、
不平等条約を締結したという大事件が起こり、日本人に大衝撃を与えた時期です。
光圀公以来、「大日本史」の編纂と独自の「水戸学」に基づく気風と伝統を貫いてきた水戸藩も
当然ながら欧米列強の脅威に対して危機感を大いに募らせていたようですから、
「天下の魁」は斉昭公が国の将来を本気で案じていたことの表れなのでしょう。
実際、「弘道館」と「水戸学」が吉田松陰や西郷隆盛など多くの幕末の志士に大きな影響を与え、
明治維新の原動力となったという話はよく知られるところです。
でも幕末から明治へと時代が移り変わる中、弘道館の文館・武館・医学館など多くの建物は焼失し、
閉鎖されていた時期もあったというのは、あまり知られていないかもしれません。
そのうち詳しく取り上げようと思っていますが、それは水戸の悲しい歴史と関係があります。
ご存じない方のために簡単に説明すると、徳川御三家であるにもかかわらず、
光圀公以来「尊皇」の旗を掲げて維新の先陣を切った水戸藩内は分裂状態となり、
内紛によって多くの命が失われ、弘道館もその舞台となったのです。
かつて国の命運を巡って人々が議論を闘わせ、血を流した時代があったというのは、
今では想像するしかありませんが、弘道館内に流れる静謐な空気は当時を忍ばせます。
4月になるとこの「左近の桜」は見事な花を咲かせるので、水戸の花見コースに入れてくださいね。(笑)
では、そろそろ帰途につきましょうか。帰りは再び弘道館公園を抜けていきます。
正直な話、僕は最近になるまで弘道館が好きではなかったんですよ。
昔は「水戸学」とか聞くのも嫌でしたし、弘道館には寄り付きもしませんでした。
幕末の水戸の歴史を感じて気持ちが暗くなったからかもしれません。
だから水戸に帰ってきてからも、弘道館はずっと避けていたんです。(笑)
でも、今回ここにきて梅を眺めているうちに、考えが変わっていくのを感じました。
水戸の先人に対して感謝の気持ちを感じるようになったからです。
幕末の水戸藩は他藩と比べられないくらい多くの犠牲者を出しました。
現在の水戸の街中に古い建物が少ないのは、空襲で焼けてしまったせいもありますが、
その時期の内紛で消失してしまったものもあると、いつか祖父から聞いたことがあります。
でも大政奉還、江戸無血開城へと続く、世界史上類のない平和な社会変革(明治維新)が実現し、
その後の文明開化と近代日本国家が驚くほど短期間に実現し、さらに言うなら、
欧米諸国の植民地にならずに済んだのは、明治維新がスムーズに進んだからであり、
その根底に「水戸学」と水戸の先人の働きがあったからというのは決して誇張ではないでしょう。
帰り道、梅の古木の枝振りを眺めながら、そんなことを考えました。